失語症



スペイン。

地中海性気候独特の乾燥した空気が市街地を包み込む。
昼下がりの空は快晴で、眩しい日差しを遮るものは何もなかった。

場所は同国首都、マドリード。 かつて勃発した最大最悪の大戦―――『聖戦』の惨禍に巻き込まれ、
深々とその傷跡を刻む事となったこの都市も、復興作業は数年前に完全に完了、
活気を取り戻し、往時と変わらぬ大都市としての機能を取り戻していた。

繁華街は際立って多くの人々で賑わい、遥か天空より眩しい陽光が分け隔てなく降り注ぐ。
昼時となると、昼食を取ろうとこの繁華街はより一層、多くの人がやってくる。
市内各所の飲食店はそんな人々で溢れ返り、店の方もごった返す事だろう。

そんな中に一つ、程よく空いている軽食店があった。

メインストリートに存在するにも関わらず、あまり目立たない感じのシックな店。
石造りの床に、丸い洋風のテーブルと洒落た椅子が3〜4脚セットで店内の各所に置かれ、
壁際には洒落たアンティークがパラパラと置かれている。
昼時と言う事で明かりを灯してはいなく、とてもゆったりと、落ち着いた雰囲気を醸し出している。
壁はガラス張りになっていて、眩しい陽光が店内の一部を優しく照らしている。
物静かなで空気も涼しく、人もそんなに居ない。

そんな店内の、出入口の近くの壁際の席に、二人の男女が座っていた。

女性の方は、肩に掛かるぐらいの、しっとりとした水色の美しい髪を持ち、
すっと通った鼻、小さな潤んだ唇、そして何処か憂いに満ちた眼。
動きやすい白生地のノースリーブの服を着て、膝より少し下までを包み込むズボンの両腰には、
奇妙な形の柄をした細身の剣が2本、鞘に収められてベルトに掛けられていた。

そして、その女性と向かい合って座っている男性。
容姿から判断して30代だろうか、普段なら常にかぶっている、大きなツバをした黒い帽子も、
流石に店内では外して、長い金髪を後ろで結わえてるのが見える。
だが漆黒のサングラスは外さず、その眼を伺うことは出来ない。
がっちりとした長身には、薄地の長い黒コートを羽織っているだけで、鍛え抜かれた胸板や腹筋が見える。
これまた黒色のズボンは大きなベルトバックルが大きく目立ち、上から下まで黒で統一されている。
そんな風貌ではあるものの、不思議と違和感は無かった。

男の前には、白いコースターの上にコーヒーカップが置かれ、
そして中にはこの店自慢のコーヒーがブラックで入れられている。
だが女性は何も注文せず、男性と目を合わさない様に俯き、ただ視線を泳がせていた。

「悪いな。忙しいとこ、時間取らせちまって」

男性が、飄々とした声で女性に話しかける。
しかし女性は尚も俯いたまま、言葉を返さなかった。

「ま、初対面でいきなり悪いが、大事な話があるんだ」

元々女性は、マドリードの大通りをこれと言った当てもなく歩いていた。
そこへ現れた、この謎のサングラスの男。全く見知りもしないこの男が、彼女に声を掛けてきた。
最初は無視していたが、何か用があるなどと言い張るので、この軽食店へと一緒にやって来たのだ。
そんな状況下に置かれていれば、女性が不審な気持ちを抱くのも当然であった。

「…その前に…あなた、誰…?」

ずっと口を閉ざしていた女性がようやく口を開いた。
とても小さく、ボーっとしていれば聞き逃してしまう様な声であったが、
男性はしっかりと聞き取り、返事を返す。

「おっと。この俺としたことが、レディを前に自己紹介を忘れるたぁ。」

相変わらずのつかみ所のない声を出し、男は少し笑ってコーヒーを口に運ぶ。
一口啜った後、カップをコースターに置き直して、言葉を続ける。

「空を駆ける、紅い飛行船。お前さんも一度ぐらいは見たこと、あるだろ」

「…知らない」

「おっと…。じゃ、今知っておくといい。
 空飛ぶ紅い飛行船に乗り込むは、その名も『ジェリーフィッシュ快賊団』!
 んでその快賊団を率いるエレガントでハンサムな団長が、ジョニーって名前なんだが…この俺の事さぁ。」

サングラスの男はそう答えたが、女性の知りたい事はそんなものではなかった。
このジョニーと名乗る男が、初対面の自分にナンパ以外に何の用件があるのか、その一点だけだった。


「さて、本題に入ろうか。…お前さん、これ、知ってるか」


コーヒーカップを置き、ジョニーは何かをコートの内側から取り出す。
それは、何かの紙…大きめで、また真新しいものであった。
ジョニーはそれをテーブルの上に置き、女性に見える様に広げた。

「…!?」

女性はそれを見て、目を疑った。
水色の髪、物静かな雰囲気の顔立ち―――自分の顔が、その紙にはデカデカと載っていた。
そしてその下には、『WANTED $7500000』と言う文字が見えた。

「(…賞金首の手配書?)」

女性は呆然とするしか出来なかった。
何で自分が、こんな法外な懸賞金とともに、手配されているのか全く分からなかった。
この理不尽な状況に、表面では冷静を装いながらも、頭の中は混乱していた。

「その様子だと、知らなかったらしいな。この手配書の通り、お前さんには賞金が掛けられている。」

さっきまでの飄々とした声から途端に変わり、ジョニーは真面目な声で話す。

「こないだのギアの騒ぎの時程じゃないが、それでもかなりの額だ。
 何したか知らんが、相当な事したんだろ?」

女性はやがて落ち着きを取り戻し、自身の状況をようやく受け入れた様である。
とは言え、まだ多少の動揺は残っているらしい。

「…私、何もしてないのに…何で、こんな…」

小さな掠れた声で、女性がつぶやいた。

「身に覚えもないのに、この額か?不思議な事もあるもんだな」

「…私…数ヶ月前までの記憶が全然ないから…。丁度、武道大会とか言うのが終わった辺り…」

「成程、記憶喪失。だがぁ…」

ジョニーはそこで言葉を止める。
この女性とは今日が初対面であるが、見る限りではとても犯罪をする様な人間には見えなかった。
記憶を失ったと言うのは武道大会が終わった頃らしいが、それも大分前の事である。
この手配書が出回ったのは最近の事で、どうにも食い違うのが彼にとっての疑問なのだ。

「とにかく、もうこの手配書は世に出回っている。
 これから先、賞金稼ぎどもがお前さんの都合などお構いなしに襲い掛かってくるだろうゼ」

この手配書が存在する限り、彼女は賞金稼ぎ達の標的となる。
細身の剣を2本、便宜上持ち合わせているとは言え、実は彼女に戦闘の経験など殆どなかった。

「じゃあ…あなたは何?賞金稼ぎじゃないの?」

今度は、女性の方からジョニーへと質問を投げかけた。
ようやく話題に食いついてきた手応えを感じ、ジョニーはカップにまた手を伸ばす。

「勘違いされちゃあ困る。でかい声じゃ言えんが、俺だって一級の賞金首。お前さんと同じ類の人間さ。」

「…?」

「俺はお前さんを、救いに来たのさ」


救いに来た?
その言葉の意味を、女性は理解しかねる。
怪訝な表情を浮かべて黙り込んだまま、ただジョニーを見つめて次の言葉を待った。

「俺は、孤独な者を救済する事を使命としている。例えそれがギアであろうと、賞金首であろうとだ。」

「…孤独な者を、救済?」

「そうだ、この手配書を見た時、俺ァすぐ分かったぜ?
 お前さんも例外じゃねぇ、孤独に苦しんでる存在だ。…実際そうなんだろ」

「…」

「たまたまこの街に食料の調達にやって来たんだが、いきなりお前さんを見かけたんでなぁ」

ジョニーのその言葉を最後に、会話が途切れる。
しばらく二人とも話を切り出さなかったが、不意にジョニーから再び言葉が出る。

「ってなワケで、どうだ。うちの快賊団に来ねぇか?」

「……えっ…?」

突然そんな誘いを持ちかけられて、女性は一瞬、何が何だか判らなかった。
露骨に困惑する彼女を尻目に、ジョニーは言葉を続ける。

「急な話で悪いが、俺達と一緒にいれば、賞金稼ぎやら何やらに襲われる心配はねぇゼ?」

女性は口ごもる。目の前の自分の手配書を眺めたまま、呆けていた。
だが数秒の沈黙の後、ようやくジョニーの言葉に返事を返した。

「…気持ちは嬉しいけど。
 いきなり現れた見ず知らずの人についていく気なんてないし…
 私は自分が何者なのか知りたいし、記憶を探さなきゃいけないし…」

女性のつれない返事を聞いて、ジョニーは左手で頬杖をつく。
余った右腕で再びコーヒーカップの取っ手を握り、またコーヒーを口に運んだ。

「そんな事言わずにィ。
 俺達快賊団の仲間に入れば、衣食住の保障は当然として、楽しい事だらけで退屈はしねぇし、
 賞金稼ぎなんか立ち入る隙間もねぇ、安全だ。
 …あー、こないだ変な女にエンジンやられて落っこちたりしたが、何、俺が守ってやる。
 それにお前さんが探している記憶も、世界中飛び回っていればすぐに見つかるだろうさ。」

「…自分の力で見つけ出したいから」

手にしていたカップをゆらゆらと弄びながら、ジョニーも口を閉ざした。
そのままお互いに言葉もなく、しばらくの間沈黙が続いた。

「…お前さんが自ら、荊の道を選ぶその志は褒めてやる…しかしだ、理想を語る前にもっと現実を見た方がいい。
 このまま一人旅してりゃ、いつどこで、どんなおっかない野郎に襲われるかわかったもんじゃねぇ。
 捕まって、機関にでも差し出されたりしてみな。そこでお前さんの全てが終わるんだ」

「……」

「確かに急な話だが、時間はいくらでもある。とりあえず一緒に来てから、よく考えて…お?」

ジョニーは何かに気を取られ、言葉を止めた。
窓際に座っていれば、窓のすぐ向こうに誰かが立っているとすぐに気づく。
そして今、窓のすぐ向こうに誰かが立っていたので、二人ともその誰かに視線を送る。

一人の少女が、店の窓を介して二人の前に立っていた。
オレンジの、あたかも海賊を髣髴とさせるデザインの大きな帽子をかぶって、薄く茶色がかった長い髪を持ち、
パッチリと大きな眼をした可愛らしい少女であった。
服も帽子と同じオレンジ色のノースリーブで、それ以上は店の垣根に隠れて見る事は出来なかった。
そしてその少女は何故か、ジョニーの方を見てどこか怒っている様な表情を浮かべていた。

「(ジョニーッ!何よ、その女!!)」

少女が外で何かを言っている様だが、ガラス窓がその声を全て跳ね返してしまい、二人に届く事はなかった。

「あ〜…やかましいのが来ちまった。」

ジョニーは少女を見て、慌ててコーヒーを飲み干す。
カップをコースターに置いて、外に居る少女に何かしらの合図を送った後、
テーブルに広げてあった女性の手配書をしまう。

「じゃあ、話の途中で悪いが俺は行くぜ?  お前さんが一人で旅を続けたいって言い張るのなら、俺は止めはしねぇ。」

「……」

「だが、もし気が変わったんなら、俺んとこに来な。
 …ま、俺ぁ一つの場所に落ち着く様な柄じゃ、ねぇけどな。」

ジョニーは冷静を保ったまま、横においていた黒い帽子を被って、席を立つ。
改めて見るとやはり長身で、膝まで届く程の大きな黒コートの裾がユラユラとなびく。
女性は何も言わないまま、身支度をするジョニーを見ていた。

「代金は、俺のコーヒーの分だけか。
 …おっとそうだ。手配書にもお前さんの名前が無かったが、最後に名前、教えてくんねぇか?
 記憶をなくして、自分の名前まで忘れてたりしてなけりゃ、の話だがな。」

「本当の名前もわからないから、…アパーシャって名乗ってる。」

「…アパーシャ、『失語症』か。
 確かにお前さん口数少ないが、どうせ名乗るんならもっとエレガントな名前にした方が良い。
 ま、とにかく縁があったら又会おうか。」

ジョニーはテーブルにコーヒー代を置いて、アパーシャに背を向ける。
彼がゆっくりと歩いてこの静かな軽食店を出て行くと、先ほどの少女がすぐさま彼に飛びついた。
そんな様子を、アパーシャはただずっと眺めていた。

やがてジョニーと少女がマドリードの人ごみの中に紛れて行って、遂には姿が見えなくなった。