足音



場所はマドリードを離れ、とある廃都市。
レンガ造りのゴシック調溢れる街並みも、人が居なければただのゴーストタウンである。
聖戦以来放置されてきたこんな廃墟でも、旅人にすれば一夜をしのぐ、
格好の下宿所として一応は機能している。

アパーシャもまた、
この廃都市内に辛うじて形を残している小さな宿の一室にて、身体を休めていた。
時刻はまだ夕暮れ時であるが、
この先の道のりは険しく、今から進もうとなると夜を挟まなければならない。
そんな危険を犯すよりは、早くてもこの廃都市で一夜を明かし、早朝に発つのが得策だと、
アパーシャはそう判断したのだ。

もはやあばら家と言ってもいい程荒んでいる、無人の宿の一室。
アパーシャはシングルベッドに身体を委ね、ぼうっとただ天井を眺めていた。
あの時の、ジョニーと名乗った男の言葉が頭の中に蘇る。
自分が賞金首?全く、実感の湧かない事であった。もしかしたら、根も葉もない絵空事かもしれない。
しかし、ジョニーの言葉は鋭く彼女の心に影を落としている。
アパーシャは気を紛らわすかの様に天井から視線を逸らし、身をよじらせた。

その時、窓の外遠くから、何かエンジンの様な低い音が響いてきた。
静寂の中から突如現れたその音に、アパーシャはベッドに寝そべったまま、窓から空を見上げる。
視線の先にあったのは、紅く巨大な飛行船―――
あんなに遥か上空で、あんなに大きな機械が、轟々と空を駆けている。
普段は見慣れない、そして雄大なその光景に、アパーシャは思わず見とれていた。
おそらくあれがジョニーが言っていた、快賊団とやらの旗艦なのだろう。
ならば彼もあの中の乗り込んでいるのか。

あの時、彼について行かなかった事は間違いではない。
自分の選んだ道こそが、正しい道なのだ。……

やがてエンジンの音も遠ざかっていき、再び静寂が戻ってくる。
翌朝になれば、次の町まで一気に歩いていこう。
次の街では、何か自分の記憶に関する手掛りは見つかるだろうか?
そんな事を考えてるうちに、アパーシャは次第に、ウトウトと眠りにつこうとしていた。

――――――!?」

だが次の瞬間、彼女はハッと目を覚まし、身体をゆっくりと起こした。
そしてベッドのすぐ傍にある部屋の窓から、外を見下ろす。

今…誰かの足音が聞こえた。

自分以外の旅人かと思ったが、それにしては足音のテンポが実に不自然なのだ。
足早で、一定の間隔を置いて聞こえてくる。まるで、隠密行動でもしているかのような足音である。
アパーシャは無意識の内に、背筋に悪寒が走るのを感じた。
自分がでたらめな額を掛けられた賞金首である事が、鮮明に脳裏に蘇った。



アパーシャはベッドから腰を上げ、壁に掛けられていた、
ベルトにつながれた鞘入りの2本の剣を両腰に取り付け、素早くそれらの剣を鞘から抜き出す。
次にそれぞれの柄の部分に備えられている特殊なギミックを繋ぎ合わせると、
2本の剣が結合され、両端に長剣の長い刀身を持つ、彼女の背丈ほどもある特殊な形状の武器になった。
(以降、双刃剣と呼称。)

それを右手に抱え、アパーシャは取り付けの悪くなっている部屋のドアを勢い良く開き、廊下へ飛び出る。
直後に、思わず右へ左へ視線を送り、廊下に誰もいないことを確認する。
心拍数が急激に上昇していき、心臓の鼓動が激しく胸を打つのがはっきり感じ取れた。

アパーシャは無人の宿のロビーに駆け下りた。
先ほど訪れた時と変わらず荒んだ佇まいで、誰一人としていないし、人の気配もない。
あの足音の主は、まだこちらの存在に気付いていないのだろうか?
勢いよく駆け下りてきたのとは対照的に、アパーシャは息を殺して宿の入り口付近へと歩み寄っていく。
出入り口の真横の壁に張り付き、外の方へと慎重に視線をやった。

時刻は6時を過ぎ、今にも沈もうとしている夕日が地面を赤々と照らしていた。
足音の主の気配は感じられない。
どくんどくんと言う、激しい心臓の鼓動の音がはっきりと、アパーシャの耳にも聞こえてくる。
双刃剣を握る手も汗ばみ、極度の緊張状態に彼女の息は荒げていた。

彼女に、足音の主と戦おうと言う気は毛頭なかった。
戦闘に関する知識も、技術も、経験もなく、非力である事は彼女自身が良くわかっていた。
手に持っている得物が如何なるものであろうとも、自分が持つ限りは飾りに過ぎない。
姿も見えぬ相手から隠れ、この廃都市から逃げ出そうと言う試みしか、頭の中に浮かんでこなかった。

外に誰もいない事を確認し、アパーシャはあばら宿を弾ける様に飛び出す。
咄嗟に周囲を見渡す。しかし、誰もいない。
だが先程、確かにこの辺りから謎の足音が聞こえてきたのだ。
この沈黙が逆に不自然に感じられ、それが尚更彼女の恐怖心を駆り立てた。

過剰な警戒を周囲に払いながら、ゆっくりと通りを歩き出す。
先程にも言ったとおり、彼女には戦おうと言う意志は微塵もない。
彼女自身、もし戦闘にでもなれば、まず勝算などないと言う事は十分に判っていた。
見つからない様に極限まで気配を殺し、この危機を切り抜けられるならそれに越した事はないのだ。

やがて、廃都市の大通りに出る。
ここに至るまで何の異常もなかったが、今のアパーシャにはそれに安堵を覚える余裕などなかった。
この広い空間に、今は彼女一人である。
あの謎の足音の主が何処へと消えたかなど、考えている暇はないのだ。
このまま通りを駆け抜ければ、明日通る予定だった道へと出る。
一刻も早くここを抜け出す事しか頭に中になかった。

「……!!」

アパーシャは大通りの中心で、再び周囲を十分に見渡した。
気配がないのを確認するや否や、過剰な警戒心を即座に解いて、全力で駆け出した。
少しでも距離を稼ぎ、見えない敵を振り切るつもりだった。

だが走り出して数秒の後、廃都市の出口に差し掛かろうとした直前である。
アパーシャは突如として走るのをやめ、おぼつかない様子で立ち止まってしまった。
彼女自身にもわからなかった。
全身の力が抜けて行き、立っている事すら出来なくなる程の、強烈な虚脱感に襲われたのだ。

「(…何?…力が、入らない…)」

アパーシャはすぐに異変に気付くが、それをとめる事が出来なかった。
身体が自然と崩折れていく。
手にしていた双刃剣を地面に突き刺し、地に這いつくばる事は避けたが、
両膝は既に地につき、張り付いたように動かす事が出来ない。
双刃剣にもたれ掛かる様にして、襲い来る虚脱感に耐えながら、彼女は気付いていた。
地面から、妖しい光が立ち上っている。それも自分の周囲にだけである。
この光こそが、身体の異常の原因である事はハッキリと判断出来たが、その正体が何なのか、全く予想がつかない。

だが次の瞬間、アパーシャの思考が凍りついた。

後ろから、足音が聞こえてきた。
さっき聞こえたそれとは違い、落ち着いた、ゆっくりとした調子のものだ。

全てに察しがついた。この光は、足音の主が張った罠なのだ…
自分がこの場所に来る事を最初から予期して、ここに、法術の罠を仕掛けていたのか。
最初から、私は敵の策略の中にいたのだろう。

後ろから迫ってくる足音が、じわじわと大きくなってきた。
それにつれて、アパーシャの恐怖心も増大していく。
しかし身体の自由は奪われ、逃げ出す事も、振り向く事も出来ない。
意識もマヒしてきた。意識が遠退いて行くのが感じ取れるが、足音だけはどんどん近づいてくる。

このまま、私は殺されるのだろうか?それとも機関に差し出されるのか?
やはりあの時、ジョニーについて行くべきだったのか。

後悔の気持ちと、自責の念と、増幅され続ける恐怖とがぐちゃぐちゃに混ざり合いながら、
アパーシャの心の中を真っ黒に塗り潰していく。
間も無く彼女の精神は極限状態を迎え、完全に恐怖に呑まれてしまった。
アパーシャは発狂したかの如く、力一杯に悲鳴を上げた。


「イヤぁあああああ!!!!」


パァン!!



突如として、アパーシャを包んでいた光が消えた。
否、打ち消された。
すぐさま彼女は正気を取り戻すが、一体、何が起こったのか自分にも判らなかった。
ただ、周りをきょろきょろと見渡す。
そして、再び自分に何か変化が起こっているのに気付いた。

呆然とその場に座り込んだまま、アパーシャは自分の右の掌に目を落とす。
軽く力を込めて念じると、右手の上の空気が急激に冷却され、おぼろげな氷の結晶が手の上に舞い降りた。
強く念じてみると、彼女の周囲の空間が瞬く間に凝固され、白い雪が辺りではらはらと降りた。

「(……法術?それも、氷の…)」

確かに、これは自分の内から湧き出る力であった。
まさか自分に法術を扱う力が備わっていたなど、思いもしなかった。
記憶を失う以前の自分が、この力を使っていたのだろうか?
極限状態の中で悲鳴を上げたと同時に、この法力が突発的に放出されて相手の術を相殺したのだろうか。

直後に、足音の事を思い出す。
アパーシャは慌てて振り向いたが、そこには誰もいなかった。
確かに足音は迫っていた…また、何処かへ消えてしまったのか?
不思議に思いながらも前を向きなおし、彼女は思わず表情が固まってしまった。

目の前に、一人の男が立っていた。
年はまだ若く、彼女と大体同じぐらいの年齢であろう。
研究者なのだろうか、タートルネックの黒いセーターに白衣を着ているのが印象に深い。
髪は長めで、優しげな顔立ちとは裏腹に、視線は虚空を見つめるかのようにアパーシャを捉えていた。
体つきはお世辞にも逞しいとは言えず、並みの男性程度のもので、とても賞金稼ぎには見えない。
右手に刃渡りの長い、肉厚な長剣を握り締めているのが、何ともアンバランスであった。

そして、そんな事よりもアパーシャが違和感を抱いていた事がある。
こいつが足音の主である事は、今更疑いようもない。
だが、『こいつが今、ここに居る』と言う実感がどうしても感じられないのだ。
別段この男の姿はエクトプラズムでも、幻覚でもない。確かにこいつはこの場所に存在している。
けど…何か違和感がある。
アパーシャは言い様のない、気味の悪さを感じた。

「これだけの法力を一度に放出するとは…やはり危険な存在だ」

男の発言に、アパーシャは不意に我に返った。
そうだ。こいつは自分を殺そうとしているかも知れない奴だ…
慌てて立ち上がり、双刃剣を地面から抜いて、形だけでも構えなおす。
こうやって対峙してしまった以上、背を向けて逃げ出すなど到底出来ないだろう。
考えうる範囲での最悪の事態…戦闘経験のない彼女に、まるで勝ち目などない。
もし抗う術があるとすれば、自分の内に眠っていた、氷の法術である。
果たしてこれがどれ程のものなのか、そしてこの謎の男にどこまで通じるのか、全くわからない。
しかし、この状況を打破出来る可能性を秘めた、唯一の希望なのだ。

アパーシャは突如、左手を男に向けた。
間髪いれず、さっき氷の結晶を生成した時の様に、全身全霊を込めて強く念じた。


「!!」


シュパァ―――――――――!!


一瞬にして、彼女の前方一帯が全て氷付けとなった。
レンガ造りの地面、街並み。機能しなくなっていた街灯。全てが凍りつき、氷柱が垂れ、霜が付着していた。
直後に前方から冷気が漂い、ひんやりとアパーシャの頬を撫でた。

行動を起こしたアパーシャ自身が、一番驚いた。
街の一角を氷の世界に変貌させる程の法力を、今、自分が出したのだろうか?
果たして、記憶を失う以前の自分は何だったのだろう。

「!!」

アパーシャが、あの男が居ない事に気付いた直後だった。
咄嗟に双刃剣を横薙ぎに振りぬいて、死角からの斬撃を辛うじて弾いて退けた。
金属同士がぶつかる、独特の鋭い大きな音が廃都市に響き渡る。 だが、男の斬撃は非常に重く、か弱いアパーシャの腕では完全に受け流せるようなものではない。
双刃剣を握っていた右手に大きな痺れが走り、双刃剣が遠くへ弾け飛んだ。

アパーシャは武器が弾かれても怯まなかった。
零距離まで接近してきた男に対し、もう一度左手をかざしてありったけの法力をぶつける。
男の周辺の空気が急激な温度低下を起こし、絶対零度の世界を再び作り出した。
これだけの冷気を一度に浴びれば、とても無事ではいられないだろう…


―――ザシュッ!!


「痛ッ!!?」


だがその直後、アパーシャの右肩から左の腰に掛けて、鋭く重い斬撃が、遺憾なく入った。
全く予想もしていなかった展開に、アパーシャは思わず苦痛に喘ぐ。

「うっ…あっ…!!」

大きな切り傷が胴体に刻まれ、鮮血が勢い良く噴出す。
その場に崩れ込んで、全身から嫌な汗がどっと滲み出てくる。
鋭い痛みがズキズキと身体の上で暴れ周り、突然の状況に頭の中は混乱していた。

アパーシャには理解出来なかった。
攻撃を仕掛けた時、男は防御する様子もなかった。確かに法術は男を完璧に捉えていたのだ。
なのに何故、こうやって動いていられるのか?
街を氷の世界に変えるほどの冷気だ、無事で居られる筈はないのに……

しゃがみ込んで苦しむアパーシャを、男は目の前で見下ろしていた。
男は、全くの無傷だった。
アパーシャの法術を直撃で受けながらも、凍傷の一つもなく平然と立っていたのだ。
右手に持っている肉厚の長剣は大部分が凍っていたが、殺傷能力に大きな支障は来たさなかった。

「法術をまるで使いこなせていない。だが、これだけの法力…。」


「ここで殺すべきか」

その言葉を聞き、アパーシャの中で精神が逆流した。
頭の中が熱くなり、冷静さを完全に失う。

「(…今度こそ、もう逃げられない……殺される…)」

男が、長剣を高く振りかざす。
それに対してアパーシャは、傷の痛みもあり、その場から動く事も出来ない。
もう、頭を上げる気力もなかった。
傷口から流れる血が滴り、服が血みどろになっているのが見えた。
アパーシャは絶望のあまり、大粒の涙をぽろぽろと流した。


「(…助けて……誰か…助けて………)」















『そこまでだ』



突然、何者かの声が響いた。

今にも長剣を振り下ろそうとしていた男は声の方を向き、振りかぶってた腕を横に下ろす。
アパーシャは俯いたまま、声だけを聞いていた。

「…誰だ」

『何、ただの通りすがりだ。この辺りに強大な法力の奔流を感じたので、様子を見に来ただけだ』

「ならば、邪魔をしないで貰いたい」

『生憎だが、私は目の前の殺生を放っておける様な性格ではないのでな』


アパーシャは呆然と俯いたまま、二人のやり取りを聞いていた。
第3者の顔は見ていないが、随分と落ち着きのある感じの声である。
それに、話の流れからすると、自分を助けに来てくれたのだろうか?


「闘る気か」

『今の攻防は一部始終見させてもらった。どうやら、君の身体には特別な事情があるようだ』

「……」

『憶測だが、君の身体そのものは恐らく、ドッペルゲンガーか何かだろう。
 そして、その活動を維持するためには絶えずエネルギーを供給するデバイスが必要不可欠だ。』

「…」

『今、君と闘うのであれば、私は君が持つその剣を破壊する事を最優先するが』


そこで会話が途切れ、沈黙が流れる。
両者は無言のまましばらく睨みあっているのだと、アパーシャは呆然とした頭で理解した。


「たったあれだけの戦いで、そこまで看破するとは…」

『私に隙はないぞ。もし闘うつもりなら、覚悟をしておいた方がいい』

「…大人しく引かせてもらいたい」

『賢明な判断で助かる。』


男は空間転移の法術で、この場から速やかに立ち去る。
そして後に残ったのは、負傷したアパーシャと、後から現れたもう一人の男性だけである。

「大丈夫か」

謎の男性の声が近づいてくるのが聞こえた。
アパーシャは敵が居なくなったのが確認出来ると、ふっと全身の力が抜けた。
極度の緊張状態の連続からの疲労と、斬られたダメージの大きさとで、即座に気を失ってその場に倒れ込んだ。

「む…」

男性は、アパーシャが気を失ったのを見て、駆け寄った。
彼女の身体を仰向けに転がしてみると、大きな切り傷がぽっかりと紅く開いていた。
来ている服も血で真っ赤に染まり、元の色がとても判った様な状態ではない。
何とか呼吸はしているが、これだけの出血だ、放置しておくと命に関わるだろう。

「しかし、この娘…解せんな。法力の絶対量が並の人間のものではない。
 …とにかく今は、応急処置をしてから、事情を聞くのか最善か。」

男性は双刃剣を回収した後、
気を失ったままのアパーシャを抱きかかえ、廃都市を後にした。
廃都市を包んでいた夕焼けはいつしか、夜の闇に飲まれようとしていた。