返答無き孤独



そこは、真っ暗な闇だった。
何処に何があるのかは判らないのは当然として、方向感覚も失い、自分が立っている感覚さえもなかった。
何も音は聞こえない、一切の静寂が広がるだけであった。

アパーシャは、自分がそんな暗闇の中にいる事に気付いた。
いつから私はこんな所にいたのだろうか?ここは何処なのだろう?
手を伸ばしてみたが、何も手に触れるものは無かった。

「…誰かいるの?」

か細い声で闇に呼びかけてみたが、何も返事は返ってこない。
誰もいないと判断すると、今度は数歩前に歩いてみた。
確かに前に進んではいるが、こんな暗闇の中ではその実感が全く湧かなかった。
構わず歩き続けても、何にも躓かないし、壁にぶつかったりもしなかった。

少し歩き疲れて、アパーシャはその場に膝を抱えて座り込んだ。
もはや、座っていると言う感覚もない。
この果ての無い暗闇の中で、彼女は改めて孤独を感じていた。
まるで、この闇は自分の心の中を表したものみたいだと、自然と思えてくるようになった。
自分の膝を抱える両腕が、自然と強くなった。

記憶を探す旅を始めてから、もうかなりの時間が過ぎていた。
それにも関わらず、自分を知る者と出会う事は無かったし、記憶の手掛りも見つからなかった。
しかし、旅をやめる事は決してしなかった。
それは自分が今まで生きて来た理由を否定する事に他ならないから。


コツ・・・コツ・・・


どこからか、何かの音が響いて来た。
誰かが靴の底を鳴らしながら歩いてくる足音。
アパーシャはハッと顔を上げ、辺りを見渡したが、ただ闇が在るばかりで何も見えなかった。


コツ・・・コツ・・・


再び聞こえてくるが足音が聞こえる方角も判らない。
まるで、自分の頭の中に直接響いてくるような感覚で気味が悪かった。


コツ・・・コツ・・・


こちらに向かってくるのがはっきり判った。
その足音は招かれざる者だと、アパーシャは直感で感じ取った。
自分の命が掠め取られてしまう。
根拠は無いが、何故かそうだと確信出来た。


「…来ないで」


擦れる様な声で、足音に対して懇願した。
だが、足音が遠ざかる様子は全くない。逆に、どんどん近づいてくるのが判った。



コツ・・・コツ・・・



「お願い…来ないで…」


アパーシャは座り込んでいた場所から飛び上がり、全力で走り出した。
相変わらず、走っても走っても距離感が全く判らない。
しかも足音のテンポは全く変わっていないのに、一向に振り切れていない。
むしろ、距離を詰められているように感じた。



あれから、どれぐらい走ったのか定かではなかった。
この暗闇の中、かなりの距離を走ったにも拘らず、何にもぶつからず、足を取られる事もなかった。
アパーシャの息が上がり切って、体力も限界を迎え、とうとう走ることを辞めてしまった。
その場に手を付いて座り込み、ハァハァと肩で息をする事に必死だった。


「はぁっ…はぁっ……」


コツ・・・コツ・・・


しかし足音はずっと彼女の頭の中に規則的に響き続ける。
もう、これ以上逃げる事も出来ない。


「来ないで…来ないで…」


アパーシャは耳を塞ぎ、足音が耳に入ってくるのを必死に拒んだ。
しかし、足音は一層大きく、彼女の頭の中に響くかのように近づいてきた。


やがて足音が、彼女の隣まで近づいて来たかと思うと、そこでピタリと音が止まった。





「……」

突如、アパーシャの視界に光が差し込んできた。
しばらくの間、何が起こったのか判らなかったが、自分が地面に仰向けに寝ている事が辛うじて判った。
ゆっくりと身体を起こし、辺りを見回した。

彼女がいた場所は、夜の暗い森の中だった。
木々が鬱蒼と立ち並び、梟や虫の鳴き声がしんしんと響き、どこか穏やかで優しい空気が漂う。
そして、こんな暗い周りを見る事が出来たのは、
彼女の横で誰かが付けた焚火の日が、赤々と周囲を照らし出していたからである。

――――――今のは、夢だったのだろうか。

アパーシャは額に汗が滲み出していて、夜の森の空気が涼しくそれを撫でている事に気付く。
悪い夢を見ていただけなのだろうと、多少の安堵感を憶えながら汗を腕で拭った。

「…つっ!」

身体を少し捻った途端、鋭い痛みが胴体を刺し、思わず声を上げて顔をゆがめる。
目を落とすと、上半身の大部分を覆うように包帯が巻かれ、それが真っ赤に染まり、こびりついていた。

次第に、今に至るまでの経緯が頭の中に蘇ってきた。

私はあの廃都市で何者かに襲われて、そいつに剣で思い切り斬りつけられて…
…誰かが助けに来てくれて…

「気が付いたか」

焚火を挟んだ向こうから、突如誰かの声が耳に飛び込んできた。
アパーシャは思わずびっくりして身体をすくめつつも、声の方に振り向いた。

何者かが、闇の中から出て来るのが見えた。

声からして、男性である事は明らかだったが…姿は見えているのに顔が確認出来ない。
その男性は、薄絹か何かで顔を隠しているのだと思ったが…。
薄絹の額の辺りと思しき部分に、大きな一つ目がデカデカと彩られ、アパーシャを見据えていた。
だが、その薄絹が、一つ目が、縦に繊維状に細かく割れて、シャラシャラと揺れている。

アパーシャは理解できた。
男の顔面を隠しているのは、薄絹などではなく、男自身の毛髪であると。
美しい銀色の、常識では考えられない程の長さの前髪が、男の首に至るまでをスッポリと覆い隠していたのだ。
額にあるオカルティックなデザインの一つ目は、髪を染めて模ったものだとも続けて判断できた。

白と黒を基調とした上等な生地の、独特の服装をしていた。
燕尾型の裾をしたカッターシャツの上に黒いチョッキを着込み、どこか気品を備えた雰囲気を漂わせている。

「安心しろ、私は敵ではない」

怯えた目で見つめるアパーシャに対して、男性はそう言ってなだめる。
アパーシャは未だにどこは不審な目をしているものの、幾分かその言葉に心を落ち着けた。

「…貴方があの時、助けてくれたの?」

「そう言う事になる」

男性はすぐそこにあった大きな石場に腰を下ろした。

「まだ傷が痛むようだな」

「…」

「強烈な斬撃を直に受けたのだ、そうすぐには治るまい」

男性は焚火の炎の方へ顔を向けながら、淡々と話す。
表情が伺えないと言うのは、何とも気持ちが落ち着かないものだとアパーシャは感じた。

「何で、助けてくれたの?」

アパーシャはまだ、この男性に対しての不審な思いを抱いていた。
尤も、相手がこの様な奇妙な風貌をしているのなら、至極当然かも知れなかった。

「人の命を奪う事を生業としているとは言え、無益な殺生は好まないからだ」

男性の返答に、思わず眉をしかめる。

「人の命を、奪う?」

「…む、口が過ぎたな。何、君とは程遠い世界の話だ、気に掛ける必要はない。」

アパーシャはますます、この男性が疑わしくなってきた。
冷静沈着で、知的さを印象付けるその温和な話し方とは裏腹な、底の知れない不気味さを憶えた。

「とにかく…助けてくれて、有難う」

たどたどしく礼を言っては見たが、その表情は固かった。

「礼には及ばん。ただ、君に聞きたいことがいくつかある」

「…聞きたいこと?」

「そうだ。そんな所にいつまでも居ると身体に障るぞ、こちらに来て火に当たると良い」

アパーシャは言われるがまま、男性と向かい側に、焚火の傍に座り込んだ。
赤い炎がちりちりと、包帯越しに彼女の身体に熱を伝えた。

「……」

「まず、君は何者だ。あれ程の法力を一度に直接放出するなど、人間の成せる業ではない。
 それに、君を襲ったあの男に関しても教えて欲しい。」

「……」

男性が尋ねた二つの問いの、アパーシャはどちらにも答える事が出来なかった。
ただ俯いて、口を閉ざしたままであった。
沈黙を保ったまま、しばらくの間、時間が過ぎ去った。

「どうした、答えられないのか」

男性が痺れを切らしたように、訝しげな声を出した。
その銀髪のベールの裏では、どのような表情を浮かべているのだろうか。

「言いたくないのであれば、無理強いはしないが」

「……私…記憶がないの…」

アパーシャが不意に、小さな声でぼそりと答えた。
男性はそれを聞いてほんの一瞬、言葉を止めたがすぐに返事を返した。

「要は、何も判らない。そういう事か」

アパーシャは俯いたまま、小さくうなずいた。

「ならば君は今、記憶を探して旅をしているのか」

「…そうよ」

「旅を始めて、どれぐらいになる?」

「武道大会が終わったぐらいの頃からだから…丁度一年ぐらいになる」

「なら、君は何故あの男に襲われていた?
 明らかに盗賊や蛮族と言った類の者ではなかったが、何か心当たりはあるのか」

「全く判らない…けど…」

アパーシャはそこで言葉を濁した。

「けど…何だ」

「私、最近、賞金を掛けられたらしいの…それも、750万も…」

男性が、かすかに驚きを見せたのが判った。
こんなか弱い女性に、そんな馬鹿げた額の賞金が掛かっているなど、誰も思いもしないだろう。

「その賞金首の話は噂には聞いていたが…君なのか」

「……」

だがそうだとしても、彼女を襲ったあの男は、とても賞金稼ぎには見えなかった。
それに彼女はずっと旅をしていただけで、話を聞く限りでは賞金を掛けられる理由もなさそうだ。

「あの時使っていた氷の法術に関しても、何も判らないのか」

「全然…私が法術を使えるなんて、あの時に初めて知ったし…」

「……話を聞けば聞くほど謎だらけだな、君は」

男性はそう言って、すっくと立ち上がり、奥の方へとゆっくり歩いていった。
アパーシャはそれを何となくじっと眺めていた。
向こうの方で男性がしゃがみ込み、何かを拾っているのが確認出来た。

男性が戻ってきた。彼が手にしていたのは、アパーシャの双刃剣であった。

「……あっ…」

「この剣、変わった形状をしているが、君のものか」

「ずっと前に、戦場跡で拾ったものよ…でも、実際に使ったのは、さっきが始めてだけど…」

「ふむ」

すると男性は突如、双刃剣を持ち直して構えた。
そして構えた状態から、掛け声と同時に双刃剣を横に振り、目の前の空を切り裂いた。

「!!」

アパーシャは驚き、目を見張った。
今の一振りだけでも、動きに無駄がなく、非常に速いスピードで繰り出されていて、
自分が持っている時とはまるで違うと、はっきり判った。

さらに男性は剣舞を続ける。
双刃剣が意志を持っているかの如く、くるくると回転しながら男性の意のままに舞っている。
男性自身も軽やかなステップを踏みながら、双刃剣を見事に振り回し、即興で演舞を行っている。
まるで男性と双刃剣とが一体となって、一つの舞を踊っているかのように錯覚させた。
アパーシャはその華麗な動きに、ただただ見とれているだけであった。

「思ったより手に馴染む…完璧に使いこなせたら、いい武器となるだろう」

演舞を終えた男性が、興味深そうに感想を述べる。
よくよく思えば、この男性が双刃剣を手にしたのは今が始めてである事を思い出した。
にも関わらず、長年それを使いこなしてきたかと思わせるほどの動きであった。
見た目もそうであるが、この男性は只者ではないと、アパーシャは改めて思い知らされた。

「時に、君はこのまま道に沿って、イタリアまで行くつもりか?」

突如質問をされ、アパーシャはハッと我に返る。

「そう、そのつもりだけど…」

「先の戦いを見る限り、君は戦闘の経験が全く無さそうだし、
 いくら強大な法力を秘めていようとも、法術の使い方を知らないと見える。
 750万の賞金首なのだろう?今のままでは、他人事と言えど先が思いやられるな。」

「……」

実際、そうだった。
反論する事も出来ず、アパーシャには耳が痛い言葉だった。
今回はたまたま助けられたからよかったものの、同じ様な事が起こる可能性はあまりに高い。
この場所からイタリアまでは非常に長い道のりであり、アパーシャは途方に暮れた。

「もしよければ、君の旅に私も同行させてもらいたいのだが」

「……えっ」

あまりに思いがけない言葉であった。
絶望的な状況に光が差し込んだ様な気持ちを感じると同時に、その意図が何であるか、不思議に思った。

「私にも事情があってな、一人でも多くの強者と戦い、少しでも力をつけねばならないのだ。
 そして君は750万の賞金首だ、自然と賞金稼ぎどもが寄ってくるだろう。」

「……」

「良く言えば、君を賞金稼ぎから守るボディガードになってやろう。
 悪く言えば、君には敵を呼び寄せるための『餌』となって欲しい。」

『餌』…随分な言い方だとアパーシャは不快に感じた。
だが、そう揶揄されざるを得なかった。

「君が戦う必要はないし、私の目的も達成出来る。お互い、悪い話ではあるまい」

「うん…確かにそうだけど…」

確かにこの男性が居ればとても心強いが、やはり何か裏があるのでは、とアパーシャは疑っていた。
無論、此処まで来ると彼女の杞憂に過ぎない。

「どうやら、まだ私を信用出来ていないようだな。
 ならば、こうしよう。
 一緒に居る間、私が君に戦闘の基本と、法術の操り方を教えてやろう。
 氷の法術は専門外だが、基礎的な部分なら私でも教えられる。君の今後の事を考えたなら、必要不可欠だろう?」

「……」

「そんなに嫌なら構わんが、結局困るのは君自身だ。
 私にも時間は長く残されていない、目的を速やかに達成する最良の手段を選びたい。」

彼女は男の言うところの『餌』であり、彼女が拒もうとも自然と敵は集まってくるのだ。
ジョニーの時と似た選択ではあるが、現状と現実に直面したアパーシャに、選択の余地はなかった。

「…判った」

「交渉成立だな、私としても有難い。」

男性は焚火の傍に座り込んだ。
まるでこうなる事を最初から予測していたかのように、落ち着ききっていた。

「ところで、まだ名前を聞いていなかったな」

「アパーシャ…仮の名前だけど、今はそう名乗ってる」

「アパーシャか。なら私の事は『ヴェノム』とでも呼べばいい。では、よろしく頼む」

「よろしく…」

「ただし、これだけは先に言っておく。
 機が熟したと判断すれば、私はすぐにその場で君と別れる。
 冷たいようだが、私とて何時までも君に付いていくわけではない。」

「…判った」

アパーシャとしても、そうしてもらえたら良かった。
ずっと一人でやってきた彼女にとって、他の人間と付き合っていく事は苦手であった。

「今夜はもう遅い、明朝に此処を発とう。君は此処で休んで、傷の回復に専念すればいい。
 私は向こうに居るから、何かあれば呼んでくれ。」

ヴェノムは最後にそう言い残し、再び立ち上がって夜の森の闇へと姿を消していった。




時刻と場所は多少変わり、どこかの都市のギルド。
ギルドと言う場所柄、腕に憶えのある賞金稼ぎ達で賑わい、活気付いていた。

現在、彼らの間で話題に上っているのは、
最近世に出回った、750万ワールド$の賞金を掛けられた賞金首の手配書である。
以前のギア騒動の時と同じぐらいに、賞金稼ぎ達は血気盛んであった。
しかも今回の標的はギアではなく、
細身の若い女性と言う事で、簡単に捕まえられると異様なまでに盛り上がっていた。

そんな彼らとは距離を置き、カウンターで一人酒を啜っている男がいた。
その双眸は見る者を震え上がらせる程の鋭く、途轍もない存在感を周囲に放っていた。
彼の周りに人がいないのも、そのせいであろうか。

「しかしまあ、例の美人の賞金首さんに皆メロメロになってはいるけどねぇ。」

ギルドのマスターがただ一人、カウンター越しにその男に話を振った。
男はぴくりとも動きはしないが、彼の話は聞いているようである。
黙ったまま、再び酒を口に入れた。

「どんなに美人で弱そうに見えても、賞金の額がそのヤバさを物語ってるもんだ。アンタもそう思うだろ」

「……そいつの手配書、あるか」

男が低い声でマスターに聞くと、
マスターは手際よく手配書の余りを一枚、男に差し出した。

「……」

手配書に載っている、水色の長い髪を持った若い女性の顔を見て、男はグラスを置いて黙り込む。

そして確信した。

その辺でたむろしてる様な奴らじゃ、この女を捕まえる事など出来ないと。
場合によっては、この女は非常に危険な存在になると。

「確かに、見た目と額とは関係ねぇな」

「情報屋の話だと、少し前にマドリードで歩いているのが目撃されたそうだ」

「…ほう」

男は無言で酒の代金を置いて、席を立った。
片手に独特の形状の剣を携え、騒がしい賞金稼ぎ達の間を潜り抜け、ギルドを立ち去る。

750万の賞金首…何を今更…
最悪の事態になる前に、さっさと片付けておいた方が良さそうだ。

「…ヘヴィだぜ…」

男はそう呟いて、歩き出した。