精神
アパーシャは再び、夢を見ていた。
いつか見たそれと同じ、真っ暗な闇の中に一人でいる夢だった。
相も変わらず視界に広がるのは黒ばかりであり、何も存在しなかった。
だが、アパーシャは少しも驚かなかった。
これは以前に見た夢と同じだと判っているのであれば、
僅かながらも精神的な余裕が生ずるのはごく当然であった。
アパーシャはゆっくりと歩き出す。
前にこの夢を見たときは、闇に何一つ見つけ出すことが出来なかった。
だけど今なら、何かを発見出切るかも知れない、そう思っていた。
失われた記憶の手掛りは、世界中の何処でもなく、
自分自身の深層心理を具体化している様な、この暗闇の夢の中にこそ在るのではないだろうか。
そう思うと、闇を進む足取りが一段と力強くなった。
だが、思いの外、長い夢であった。
かなりの長い時間、アパーシャは闇の中を彷徨っていたが、一向に何も見つからなかった。
以前と同じく、この空間は果てが無く、どこまでも続いていた。
疲れ果て、とうとう足を止めてしまう。
自分がずっと求めていたものが見つかると微かな希望を持ち、静かに心が昂ぶっていただけに、
こうも何も無ければ流石に焦りが生じる。
今まで記憶の手掛りを得る機会と出会うことが一度も無く、夢の中とは言えそれを見つけた気がした。
もしかしたら、これで自分の旅が終わりを迎えるかも知れないと微かに思っていた。
期待外れな思いとともに、悲しさが内から湧き上がり、アパーシャは一粒涙を流した。
コツ・・・コツ・・・
条件反射的に、背筋に悪寒が走った。
ずっと五感が刺激を受けていなかったため、突如の刺激に尚更ビクリと肩をすくめた。
以前の夢にも出てきた、あの足音だ。
コツ・・・コツ・・・
変わらず一定のペースで、その足音は甲高く暗闇にこだまする。
この足音の主は、廃都市で出会ったあの謎の男だと思っていた。
死が限界まで自分に迫ってきた時の、あの絶望的な恐怖が自分の心にこびり付き、
こうしてまた夢の中でぶり返しているのだと、そう解釈していた。
コツ・・・コツ・・・
だが、アパーシャは今度は逃げなかった。
もしかしたら、この足音の主こそが、記憶の手掛りを握っているのかも知れない。
足音の主、そして自分自身の恐怖心へ正面から立ち向かい、打ち勝つ事で進展があるに違いない。
だからアパーシャは逃げなかった。
足音はどんどん近づいてくる。
アパーシャはじっとそこに立ち止まり、それが自分の所に来るまで待っていた。
心臓の鼓動が激しくなり、恐怖心が増大していくのを必死に押さえ込んだ。
足音が此処に来るまでの時間が、非常に長く感じられた。
・・・・・・
足音がピタリと止んだ。アパーシャは思わず目を見開く。
恐る恐る辺りを見回すが、何も変わらず闇が在るだけであった。
だが、足音の主はすぐ傍にいるはずだ。
「…貴方は誰?」
勇気を振り絞って、足音の主へ言葉を放つ。
はっきりと発声はしたが、恐怖が抑えきれずに、その声は震えてしまっていた。
そして、返答は一切返ってこなかった。
「……」
アパーシャは呆然と立ち尽くしていた。
何も言葉が返ってこないのが、もどかしく感じられた。
だが次の瞬間、彼女はある変化に気付いた。
この果てない闇の中で、彼女の網膜が初めて黒以外の色を認識した。
何かが目の前に浮かび上がっている。
アパーシャの視線はそれに釘付けになり、息を呑んで凝視した。
やがて、浮かび上がってきたそれの姿がはっきりと視認出来るようになって来る。
まず、判った事は、足音の主は女性であるという事。
細身で華奢な印象を与える顔立ちで、白生地のノースリーブを着ていて、
そして特徴的な水色の長く美しい髪――――――
「!!」
アパーシャの心臓がどくんと、大きく脈を打った。
今、自分の目の前に姿を見せた足音の主は、まさしくアパーシャ自身であった。
現在のアパーシャは髪を結わいて上げ、バザーで購入した白いブラウスを着ているが、
もう一人の彼女は髪は下ろしていて、服装も以前のままだった。
だが、二人の間にはもっと大きな違いがあった。
もう一人のアパーシャは、まるで生者を妬む死者の様な、感情の欠落した眼をしていた。
人間的な温もりも何もなく、不気味に瞳孔が開き、もう一人の彼女を捉えていた。
それに良く見ると、両腕が血塗れになっていた。
白のノースリーブも誰かの返り血を浴びて、大部分が深紅に染まっていた。
あまりに予想を超えた事態に言葉も出ず、その場に崩れるように尻餅をついた。
それはアパーシャをじっと見下ろしている。
虚ろな双眸が宿すものは、透き通った様に純粋で、素朴で、そして本能的な殺意。
直に視線を交えているアパーシャが一番、それを感じ取っていた。
外観こそは同じだが、その本質が根本からまるで違う、全く別の存在だった。
今彼女の目の前にいるのは、彼女の形を模したケダモノであった。
言葉を交える余地すらもなかった。
殺すか殺されるかと言う、二つの概念しか存在しない、殺伐とした世界に放り込まれた気分だった。
あの時、廃都市で味わった死への恐怖とは、どこか同じで、どこか全く違っていた。
先程までの虚勢は、それを悠に超える恐怖にいとも簡単に圧し潰され、
喉から漏れてくるのは擦れる様な粗い息遣いだけである。
あの時と同じ様な汗が大量に促され、アパーシャの額をつつと滴り落ちた。
それがゆっくりと右手を前に出した。
その右手は万遍なく血を纏い、光沢の一つもなく生々しくぬめりを見せる。
アパーシャは完全に腰が抜けてしまい、手の動きを目で追うしか出来なかった。
次第に、手が向かう所がアパーシャの左胸であると判断出来た。
自分の肉体を直に突き破り、生きたまま心臓を抉り取ろうとでも言わんばかりに、
血塗れの手は迷う事なく真っ直ぐと左胸へ迫ってきた。
そこから先のことは憶えていない。気がつけばアパーシャは目が覚めていた。
「どうした、法力が乱れているぞ」
「…」
バザーを出発した翌日の昼であった。
今のところは賞金稼ぎ達もなりを潜めていて、アパーシャのトレーニングは思いの外、順調に進んでいた。
身体に大きく刻まれた傷も完治し、双刃剣の扱い方の指導も、基礎的な部分は大体終わった。
後は、これまでヴェノムに教わった事の反復練習を繰り返し、
各々の技術を少しでも高め、来るべき実戦に備えるのみである。
だが、ここに来て、順調だったペースに乱れが生じた。
アパーシャ自身に何か変化が起こった。
元々、自分から口を開く事など、全く殆どと言っても良い程なかったのだが、
今日の彼女は何時にも増して塞ぎこんでいる。
ヴェノムには当然、原因が判るはずもなかった。
別段、何か目に見えたトラブルが起こったわけでもない。
にも関わらず、今朝からアパーシャがずっとこんな調子なのだ。
何時になく暗い表情を浮かべ、何も喋ろうとしない。
全く持って不可解であった。
双刃剣の扱い方に関する指導の時にはそうでもなかったが、
彼女の十八番である法術の鍛錬の際に、それがハッキリと表面に現れた。
つい先日までは、法力を制御する能力は目覚しい成長を遂げ、
これならば高等法術の修得もそう難しい事ではないと、ヴェノムも感心していた。
以前に試行した時は失敗に終わったエンチャントスペルも、何とか出来るようになっていた。
まだまだ実戦投入には覚束ないが、これをこの短期間で修得する事自体が素晴らしい事だった。
だが、今はどうだ。
清流の如くきめ細やかな流れを見せていた彼女の法力は何とも雑に乱れ、
とても制御出来ていると言えるものではなく、見ているヴェノムも思わず首を捻ってしまう。
彼女の著しい精神の乱れが、そのまま此度のスランプに反映されているようであった。
「…そこでやめておけ」
乱雑な法力の流れを見ているのも忍びなく、ヴェノムは終了の合図を出す。
それを待っていた様に、アパーシャもすぐに瞑想を止め、速やかに乱れた冷気が消滅して行く。
これまでの鍛錬を見る限り、アパーシャは接近戦のセンスがあまり見込めそうになく、
その代わり、法術に関する資質は素晴らしいものがある。
法術をメインとした遠距離戦型に秀でている事はまず間違いないが、
ここに来てこのスランプは、場合によっては致命的になりうる事も十分考えられる。
「一体、何があったのだ?此処まで精神状態が不安定とは、只事ではない」
「……」
アパーシャは尚も沈黙を守り続けた。
終始顔を俯かせ、視線を合わそうともしなかった。
やがて、気まずい空気が二人の間に流れる。
何も喋りだそうとしないアパーシャを睨みながら、
ヴェノムは彼女が口を開くのを根気よく待つだけであった。
そうして数十秒が経過し、仕方なくヴェノムの方が音を上げた。
「…もういい、先を行くぞ」
「…」
―――何とも、解せぬ娘だ。
記憶を失っていると称して何も語らず、常識を逸する法力を持ちながら技量は0に等しい。
そして、目に見えて伺える精神力の弱さ。
本当にこの女は何者なのか?
だが、ヴェノムは別に彼女に不審感を抱いているわけではなかった。
どちらかと言えば、素性から何から不明でありながら、
理不尽なまでの額を背負ったこの女が、一体これから行く先に何を見せてくれるのか。
それに対する澄んだ好奇心と、僅かばかりの期待であった。
そしてもう一つ、ヴェノムが感じている事がある。
一体何が、アパーシャの心を閉ざしているのかは見当もつかないが、
どうやら彼女は、自分が置かれている状況を忘れてしまっているらしい。
長い目で先を見れば、長くは持たない事は明白である。
こんな状態のまま、もしヴェノムが居なくなってしまえば、時を待たずに自滅してしまうだろう。
本来ならば、赤の他人である彼女がどうなろうと、ヴェノムの知った事ではない。
だが最初に約束をしてしまった以上、出来る限りの事はしてやらねばなるまい。
しょぼしょぼと後ろをついて来るアパーシャを尻目に、ヴェノムは一つ溜息をついた。
既に夜は深くなり、夜空には数多の星々が輝きを見せている。
ヴェノムとアパーシャは、とある高原に差し掛かっていた。
標高はそこそこ高く、夜の空気は冷たく澄んでいて、どこか不思議な魔力を帯びている様にも思えた。
細い山道は険しかったが、ずっと歩いて旅をしてきたアパーシャには慣れっこであり、
ヴェノムの方もこれと言って苦にしている様子も無かった。
相変わらず、ヴェノムが道の先を行き、アパーシャが距離を開けて後ろをついていく形だった。
こんな時にもし賞金稼ぎでも襲ってきたのであれば、地形的にかなり不利である。
そうなれば、さしものヴェノムでも、もしかすると危ないのではないだろうか?
ぼんやりとそんなことを微かに考えながら、ただ彼の後ろを歩いていた。
「ふむ」
やがて、細い山道を抜け、とても広く平らな場所に出る。
周囲が良く見渡せ、すぐ近くに誰かが焚火をした跡が伺われた。
どうやら、野宿をするには格好の休憩地点であるようだ。
「今夜は、ここで一晩休むのが良さそうだな」
ヴェノムがそう言って、野宿の準備を始めだす。
後から到着したアパーシャは、近くの岩場に腰を下ろし、ぼうっと放心しているのみだった。
やがて夜の闇も深くなり、周囲を見渡すのも容易ではなくなってきた。
ヴェノムが熾した焚火が赤々と空間を照らし出すのが唯一の光源となり、いつかの夜と同じ状況になった。
ただ、今回は会話は一切ない。
アパーシャは絶えず口を閉ざしたままだし、ヴェノムも話を振ることは無かった。
鼓膜を刺激するのは、焚火の炎がパチパチと弾け合う音のみである。
今日一日、アパーシャの中で渦を巻いていたのは、あの夢への考察であった。
果たして闇より現れたもう一人の自分は、何を意味していたのか?
冷えた獣の様な双眸で見つめられた時のあの戦慄は、夢とは思えないほど生々しかった。
まるで、記憶を求め歩いている自分を、その記憶自信が拒絶しているようであった。
もう一人の自分は、自分が長い間求めてきた記憶への確かな手掛りであり、
同時に、今一番自分を脅かしている恐怖の根源でもあった。
「アパーシャ」
突然、外部から彼女を呼ぶ声が聞こえてきた。無論、ヴェノムである。
「そろそろ、何があったのかを教えてくれないか」
前振りも無く、単刀直入に話を切り出してきた。
あっちとしても、この不穏な空気をどうにかしたいのだろうか?
「……」
だが、アパーシャは依然と黙り込んだ。
ヴェノムに打ち明けたところで、どうとなる訳でもないのは判っていた。
だから、何も言おうとしなかった。
「…一体何が、君をそうまで怯えさせているのかなど、私には判らん。
ただ、確かに言える事がある。君のその心の弱さは、近い将来、必ず君の命を奪うだろう。」
「…」
「そんな脆い心で、君は君を殺そうとする敵へと立ち向かえるか?
そんな脆い心で、君が見つけた記憶が過酷なものであった時、君はそれを受け入れられるか?」
ずっと黙って聞いていたが、何とも耳が痛い内容だった。反論の余地も無かった。
「如何なる才能を秘めていようと、そうやって恐怖から眼を背け、
そしてそれに抗う気力も持たないのであれば、君は精神の死者以外の何者でもないのだぞ。」
アパーシャは何も言い返さなかった。
そこまで言うのなら、お前は私に何が出来ると言うのだ―――?
再び、沈黙が始まる。
アパーシャは何も言わず、口を閉ざしたままだったが、
今のヴェノムの言葉が心に残り、大きなしこりを形成してわだかまっていた。
やがて、向こうの方で、ヴェノムがゆっくりと立ち上がるのが見えた。
「いいか、アパーシャ。よく聞け」
今度は何を言うつもりだ?
アパーシャは少し憤りを覚えながらも、次の言葉を待った。
「君の心は、750万の賞金を背負うにはあまりに脆弱すぎる。」
「(…だから、何?)」
「この数日間で、戦闘の技術に関して、教えられることは大体教えたつもりだ。
だから、君に対して私がしてやれる事は、今から行う事が最後だ。」
「…?」
「私は今から、君を殺す」
アパーシャの心臓がドクンと、大きな鼓動を打った。
驚きのあまりに眼を見開き、ずっとうな垂れていた頭を上げる。
次第に心臓の鼓動が力強くなり、息が少し苦しくなってきた。
―――今、何と言った?
「…えっ」
全く状況が理解できなかった。
あまりにも唐突であり、アパーシャの頭は混乱した。
どんな理由があっての発言か?何を思って、今の言葉を発したのか?
「冗談だと思っているのなら、それでいい。
人を殺めるのは生来の所業でな、今ここで君を殺すなど訳のない事だ。」
普段通りの落ち着いた口調で話しながら、ヴェノムはケースからキューを取り出し、組み立てる。
「ちょっと待って…何で…」
「君が生き延びる方法は一つだ。
これまでに私から教わった事を総動員し、私を止めて見せろ。」
キューを組み立てて、今度は着ているカッターシャツのボタンに手をかける。
手際よく胴体部分だけが脱ぎ捨てられて、茶黒く焼けた、鍛えられた上半身が曝け出される。
思えば、ヴェノムは戦闘になるといつも上着を脱ぎ捨てて、動きの妨げにならないようにしていた。
……本当に、私を殺すつもりなのか?
「その剣を抜け。もし生き延びたいのなら、殺される前に私を殺す事だ。」
全く聞く耳を持たないと言った様子で、ヴェノムは戦闘態勢に入る。
どういう脈絡から、こんな展開になったのか。
アパーシャは今の会話を手繰ってみたが、いまいち理解できなかった。
何故私達が殺しあう理由があるのか?
「……」
思考が停止したまま、アパーシャはおもむろに双刃剣を抜き、組み立てた。
全く状況が判らないが、ハッキリとしている事がある。
…目の前に敵がいる。
しかし、ヴェノムの強さは、短い期間ではあるが行動を共にしてきてよく判る。
正直勝てる見込みはないが…やらなければ死ぬのであれば、やらねばならないのか。
不本意ながらも、アパーシャは教わったとおりに、
双刃剣を後ろに構え、左手に冷気を作り、ヴェノムと向かい合って戦闘の構えを取った。
まさか、彼と戦う事になるとは――――――
アパーシャは内心、混乱すると同時に困惑していた。
「さあ、君の力を見せてみろ……」
途端にヴェノムから、凄まじい殺気が放たれた。
それに思わずアパーシャが怯み、構えに乱れが生じた。
「!」
その一瞬の隙を見るや否や、ヴェノムが容赦なく動きを見せる。
ビリヤードの白球を模った球体を法術で手早く生成し、手に持つキューで勢い良く突き飛ばした。
そんないきなりの攻撃に反応できるわけもなく、
猛スピードで飛んで来たボールは、アパーシャの頭部にまともに直撃した。
ガンッ!!
「あぅっ!」
堅いボールがぶつかり、頭の中が大きく揺さぶられる。
ズキズキと痛みが生じて、視界がグルグルと回り、大きくよろけた。
そして、ヴェノムが一気に距離を詰めてきた。
アパーシャが体勢を立て直すのを待たず、追撃を入れようと遠慮無しに畳み掛ける。
今度はヴェノムのキューが右から、頭を狙って襲ってくる。
アパーシャは体勢を崩しながらも、双刃剣で辛うじてキューを受け止める。
だが、ヴェノムは攻撃を休めない。
キューを握っていた両手のうち、左手を素早く離し、アパーシャの右肩に掌打を叩き込んだ。
「痛っ…!」
掌打にしては、感触が固かった。
右を見ると、ヴェノムの左手にボールが握られているのが見えた。
どうやら直前に手中のボールを生成する事で、掌打の威力を向上させた様だった。
さらにヴェノムはくるりを身体を回し、
キューに遠心力を乗せ、アパーシャの頭部を狙い思い切り振るう。
だがギリギリのところで彼女は身を屈め、キューは空を切った。
屈んだ身体をバネにして後ろへ飛びのき、ヴェノムから距離を離した。
素早く体勢を立て直しつつ、前を向いた。
「!!」
いない!
「そこではない!」
真後ろから声が聞こえたと同時に、反射的に前方を飛び込んだ。
直後にアパーシャの頭部があった空間を、キューが貫いた。
何時の間に、どうやって、背後へ回りこんだ?
そして、ヴェノムはさっきから、人体の急所である頭部を集中して狙ってきている。
―――本気で自分を殺しに掛かってきている証拠である。
そう実感して、アパーシャは改めて恐怖を覚え、ゾッとした。
その後も、ヴェノムの容赦ない攻撃は続いた。
アパーシャは反撃の余地も許されず、ただ逃げ回るしか出来なかった。
本来、もっと思慮深い戦いを展開するヴェノムがこうも積極的に攻めてくるのは、
彼女の接近戦の弱さ、瞬発的な状況判断力の甘さを考慮し、
そして彼女の最大の武器である法術を使わせる暇を与えないためである。
アパーシャの強大な法力が牙をむけば、流石のヴェノムでも危険なのは十分理解していた。
やがて、アパーシャの疲労が溜まってきた頃に、ヴェノムは何故か猛攻を止め、距離を離した。
突如攻撃の手を休めた事にアパーシャは多少の戸惑いを覚える。
「…もう、君の負けだ」
落ち着き払った声で、ヴェノムはそう言い捨てた。
それを聞いたアパーシャは、息が上がりながらも、言葉の意味を理解しかねた。
「まだ判らぬか?周りを見てみろ」
言われた通りに周囲を見渡すと、異様な光景が目に飛び込んできた。
白球が浮いていた。
一つではない。何十ものボールがアパーシャの全方位を取り巻き、ぷかぷかと浮いていた。
アパーシャは声も出なかった。最悪の状況だとしか思えなかった。
「少しでも動いてみろ、周りのボール全てが君に襲い掛かるぞ。
私が次の行動を起こせば、君はそれで終わる。」
完全に、活殺自在の権はヴェノムに奪われていた。
呆然としたまま、彼の方を向いた。
「私は敢えて、単調な攻撃しかしなかった。
それにその間、これだけの数のボールを生成しながら、ずっと攻めていたのだぞ?
君には反撃のチャンスなど、数え切れないほど存在した筈だ。
なのに、君は反撃をしなかった。何故だが判るか」
「…」
「君の心の中に、敵への怯えと恐怖、この二つしか無かったという事だ。
少しでも戦おうと言う意志があったのなら、
私が隙だらけである事に即座に気付き、反撃に移る事が出来ていただろう。」
「…!」
「君ほどの法力を以ってすれば、十分に私に勝てていた。
にも関わらず、君は逃げる事しか考えず、戦おうともしなかった。
この状況は、君自身が招いたものなのだぞ」
こうなったのは、私の自業自得だと言うのか―――?
「この戦いの中で君が恐怖心を克服し、
戦士に相応しい精神力を手に入れることを期待していたのだが…」
「…」
「短い付き合いだったが、ここでお別れだ」
もう、今度こそ都合よく助けが来たりはしない。
一年近く続いた記憶探しの旅は、目的を果たせぬまま此処で終わるのか?
死んだら、そこで何もかも途絶えてしまう。
―――私の法力なら、ヴェノムすら手に掛ける事が出来る?
さっきの言葉を思い返してみた。
こんな状況なのに、そう思うと僅かながら希望が湧いてきた様な気がした。
もしかしたら…今からでも、上手く行けば或いは、この危機を脱する事が出来るかもしれない。
どうせ死ぬのなら、最後ぐらい…強気に大博打に出てもいいだろう。
「む」
「…」
アパーシャは黙って、ゆっくりと双刃剣を持ち直し、構えた。
自分でも不思議ぐらい、気持ちが落ち着いていた。
どこか吹っ切れたような―――死への恐怖が何時の間にか何処かへ消えてなくなっていた。
「最後の最後になって、ようやく修得したようだな」
「…え?」
アパーシャは構えは崩さなかったが、思わず間の抜けた声を出してしまった。
「死を恐れずに、しかし冷静さを失わず、自分の敵と向かい合える精神力。
今君が手に入れたもの、君に決定的に欠けていたものだ」
「…」
思えば、今みたいな気持ちになったのは初めてであった。
廃都市では、完全に心を折られ、そのまま死を受け入れようとしていたのに…
「相手が自分より強ければ逃げ腰になり、戦おうともしない。
そんな態度では、例え格下の相手であっても、いずれは足元を掬われる事になるぞ。」
ヴェノムが途端に戦闘態勢を解き、キューを解体し始める。
それと同時に、アパーシャを取り囲んでいたボールが次々と消滅して行った。
「…このために、今までずっとあんな芝居をしてたの?」
「まあ、そうだが…芝居ではない。
私は本気で君を殺そうとしていたし、君があそこで諦めたなら殺すつもりだった」
「…」
「本当に死が極限まで近づいてきて、初めて精神力の強さが試されるものだ。
あれだけ気が弱かった君が、あそこであんな眼をするのには多少驚かされたがな」
半ば複雑な心境で、アパーシャも双刃剣を解体して、鞘に収めた。
今のも訓練の一環だったとは言え、判断を誤れば本当に死んでいたのかと思うと、素直に安心出来なかった。
「今の気持ちの落ち着きを決して忘れるな。
明日からは、私が相手をする価値の無さそうな賞金稼ぎが来たら、君と戦わせる。
此処まで来れば、後は今までの基礎訓練を重ねつつ、実戦で経験を積んでいくのみだからな。」
「…うん」
「よく頑張ったな。イタリアはもう近い、今夜はゆっくりと休んでおけ」
アパーシャはその場にへたれ込んで、しばらく放心状態になっていた。
改めて思った、命の奪い合いと言うものは、あれ程怖いものなのか―――
そして気が抜けた途端に、さっきヴェノムの攻撃を受けた頭部と右肩が、ズキズキと痛み出す。
夜空に輝く無数の星を眺めていられる事だけでも、何故か有難い気がした。
そうしている内に、アパーシャは何時の間にかその場に倒れ込み、深い眠りに落ちていた。