背徳の炎・前



『神よ』

『願わくば、私の声を聞いて下さい』

『神よ』

『私は何者で、如何なる使命を帯び、如何なる業に手を染めていたのです』

『私は焦がれ、それだけを知りたくて今まで放浪を続けてきました』

『只それだけなのに、何故貴方はかくも辛い試練をお与えになるのです』

『私がそれを知ることは果たして許されない事なのでしょうか』

―――――――――

『神よ』

『もし私の願いを聞き入ることが出来ないのならば、せめて私に安らぎを』

『神よ』

『願わくば、私に貴方のご加護を――――




「君のような者でも、神を信仰するのだな」

後ろからヴェノムの声が聞こえてきた。
アパーシャは振り向くこともなく、祈りを捧げる様な姿勢から立ち上がり、眼を開いた。

場所はイタリア、ジェノバ。
郊外にひっそりと佇む小さな教会の聖堂。
立派なステンドグラスからは眩しい陽光が聖堂に光をもたらし、神秘的に照らされている。
ヴェノムとアパーシャ以外には誰もおらず、静寂に包まれていた。

「別に…神なんて信じてる訳でもないけど」

「ならば、何故ここに居る」

「宗教なんて、所詮は民衆の不安を取り除くための手段にしか過ぎないから。
 だから私も、少しでも気持ちを楽にするために、ちょっと神頼みをしてみただけ…」

「…」

―――随分と、御喋りになったものだ。

陽光の中に包まれるアパーシャを呆然と眺めながら、ヴェノムはそう感じた。
あの夜以来、確実に彼女の中で何か変化が起こっている。
ほんの少しではあるが、主体性のようなものを手に入れた様に思われた。
口数は依然として少ないが、トレーニングへの取組み方がより熱心になり、成長率も上がっている。

幾度か賞金稼ぎと戦わせる機会があった。
経験の少なさ故に危なっかしい場面も多々見受けられたが、
訓練で学んだ事を忠実に守り、何とか無難な戦い振りを見せていた。


先日ジェノバに辿り着き、二人はとりあえず安堵の息を漏らした。
多少の休息を挟み、大通りをなるべく避けて、アパーシャは記憶に関する記録を丹念に調べた。
だが、やはり何も見つかることはなかった。

「何か、君の記憶の手掛かりは見つけられたのか」

「…ううん…何も」

「そうか。これは君の問題だからな、私には何もしてやれる事はない」

「…」

別に、彼女もヴェノムに対してそれを期待はしていなかった。
二人の間には『撒き餌』と『ボディガード』と言う、何とも奇妙な関係しか存在しない。
未だに素性のはっきりしない彼を完全に信用するには、まだ時間が必要だった。

「だが、君の記憶…いや、君の正体と言うべきか。
 果たしてそれが何であるのか、私個人としても興味がある。
 叶うものなら、私が同行していられる間に見つけ出して欲しいものだ」



「…ねぇ、一つ聞いていい?」

不意に質問を投げかけられ、ヴェノムは眉をひそめる。
行動を共にするようになって数日経つが、アパーシャから声を掛けてくるのは初めてだった。

「貴方、ボディガードとか言って賞金首と戦ってくれるのは有難いけど…、
 そもそも何の目的があって、こんな事をしてるの?」

彼女にとって、それは当然な疑問であった。
ヴェノムはしばらく黙り込んでいたが、数秒の後に返事を返した。

「まあ、君に話しても何ら支障は無さそうだから、話しても良い」
 
「…」

「私は現在、とある組織の頭を務めていてるのだが、
 その組織は今、ある強大な存在のために無くされようとしている」

「組織?」

「そうだ、孤児だった私が育った場所であり、私が忠誠を誓う主が遺した組織だ」

「…」

「主のためにも、私自身のためにも、組織を無くさせるわけにはいかぬ。
 だが今の私には、それを食い止めるだけの力はない。強大な存在を打ち倒す力だ」

「だから今、それを手に入れるために旅をしている訳?」

「そう言う事になる。そこへ君が現れた。
 巨額の賞金首には、自然と猛者が寄ってくるだろう?私からすれば、願ってもない好条件だ。
 …ただ、寄ってくる賞金稼ぎどもが未熟すぎて、結果として未だ収穫はないがな」

「その組織も、貴方の主と言うのも、そこまでして守る価値のあるものなの?」

「無論だ。
 組織は私の唯一の居場所であり、
 そして主は処分されそうになっていた私の存在価値を認めてくれ、
 救いの手を差し伸べてくれたお方だ…組織を守ることが私の使命であり、主への忠誠だ」

存在価値、と言う言葉に僅かに反応し、アパーシャは胸を詰まらせる。
憂いに満ちた双眸をふと正面のステンドグラスへ挙げると、
外界から刺し込む陽光はどこかくすんでいる様に見えて、漠然と彼女の視界を光で満たした。
そうして数秒の間を挟み、アパーシャが口を開く。

「…貴方の主というのが存在出来る理由を与えてくれたから、貴方はそんなに穏やかで居られるの?」

突如そんな質問をされ、流石のヴェノムも思わず小声でうめいた。
最初の頃と比べると、他人の内部に此処まで言及してくるのはまるで考えられなかった。
僅か数日の間ではあるが、確かに彼女の中で何かが変わっていた。

「…そう言われると、或いはそうかも知れんな。
 それまでの私は、まるで今の君のようだった。
 生きることに何の意味も見出すことなく、ただ虚無的に時間の中を存在して来た」

「…」

「だが君は、私とは違う。
 君には失った記憶を探すと言う、はっきりとした目的がある。
 そのために今、こうして生きている。
 存在する理由など、そんなもので十分ではないか」

それを聞いて、アパーシャは黙り込んだ。
今までの自分は、自身をまるで抜け殻のようなものとして認識していなかった。
それだけでは何の意味もなさぬ、空虚で価値など皆無なモノだと思っていた。
いつかどこかで失った記憶が、自分の本質や存在意義を持ち得ていて、
それだけが抜け殻である自分を満たしてくれるのだと信じてきた。
だが今、ヴェノムが抜け殻としての自分に存在価値を与えてくれた、そんな気がした。

「ところで、私としても君に聞きたいことがある」

ヴェノムがふと、質問を返してきた。

「…何?」

「もし仮に、これから先ずっと記憶が見つからなかったり、
 例え記憶を取り戻したとしても、それが君が受け入れられぬもの、
 決して満足の出来るものでなかった場合、君はどうするつもりだ」

――――――

「そんな事…考えたこともない…」

「そうか、すまなかった。今の君にはあまりに酷な問だったな」

言われてみれば、もしそうであったなら、自分はどうするのだろうか。
だが、それを考える勇気はまだ、彼女にはなかった。

「だが、これだけは覚えておくことだ。
 私が言える立場ではないが、存在価値など自分で創り出す事も出来る」

「…?」

「何も、記憶を探すことだけが君の全てではあるまい。
 記憶を無くしてしまっても、また一から積み上げていけばそれ自体が新たな自分になる。
 自分の力で新たな道を切り開く事で、得る事の出来る安らぎもあるという事だ」

――――――

「…有難う、とりあえず、覚えておく」

だが、内心、アパーシャはそれに対して腑が落ちなかった。
自分で自分の新たな道を切り開くと言うのは、聞こえこそはいいが、
今の彼女にとっては言わば、妥協だった。
一年以上も続けてきたこの旅を否定し、失われた記憶を見捨てる事は、
まさにそれ自体が今の彼女自身を否定することであった。

だが、いつかはその選択を選ばざるを得ない時は必ず来るであろう事を、
アパーシャは薄々ながらも予感していた。


「話を変えるが、記憶の手掛かりがないと分かった以上、もうこの都市に用はあるまい。
 他にどこか、行く当てはあるのか」

「…」

アパーシャは無言のまま、首を横に振った。

「ならば、次はローマに行くのが良いだろう。
 ジェノバよりも大きな都市だ、何か見つかるかもしれない」
 
「うん、それでいい…でも、もうちょっと此処で手掛かりを探してみる」

「そうか、私もちょっとした野暮用があるのでな、またしばらく別行動を取ろう。
 2時間後に南の出口で落ち合うと言う予定でいいか?」

「…分かった」

「あと、さっき確認したが、西の区画に賞金稼ぎのギルドがある。
 くれぐれも、無用心には近寄らぬことだ」





昼下がりのジェノバの空は澄んでいた。
鳥達が暖かな陽光を背負い、雲一つとない空を優雅に滑っていた。
その下の大通りでは人でひしめき、賑わっている。

街の広場の中央に位置する噴水の脇に、アパーシャは腰を掛けていた。
彼女自身、大して期待もしていなかったが、やはり収穫はなかった。
しかし、別段これと言って落ち込むことでもない、もう慣れっこだから。
此処にも無かったなら、次の場所で探せば良い、片っ端から、しらみつぶしに。
そうすれば、いつか、必ずは―――――

アパーシャは何気なく、前方を行き交う人々を眺めた。
老若男女、人種、何の統一性もない人間が集団で、単独で、まばらに歩いている。
彼らには皆、これまで生きて来た、存在して来たと言う確かな記憶がハッキリとあるだろう。
そうして多かれ少なかれ、安定した精神状態で以って日々を過ごしているのだろう。
記憶が無いという事が如何に苦痛であるか、彼らには知る由もないだろう。
アパーシャはそんな事を思いながら、虚空に眼を泳がせた。

…でも彼らは同時に、見えぬ未来へと生きている。
断続的に続く時間の流れは常に過去から未来へと空間を変化させている。
人々は少なくとも、先の見えぬ事の不安へ立ち向かって生きている。
しかし、アパーシャの中の時間はずっと止まったままであった。
記憶が戻って初めて、自分の中の時間は動き出すのだと、ずっと信じてきた。
未来と向き合う事を『生きる』と言うのだと仮定したのなら、
彼女は自ら生きることを否定していて、ただ虚無的に存在しているだけに過ぎなかった。
もし今、凍りついた自分の時の流れを無理矢理に動かそうとするのであれば、
それは先ほど、ヴェノムが忠告した事を実行する事に他ならなかった。

「…」

アパーシャはおもむろに立ち上がった。
どうも彼女は、一人で居ると、こんな事ばかりを考える傾向があった。
悲観的で、出口も答えも決して存在し得ぬ、意味の無い考え事を巡らせては思い詰める。

…どういう訳か、最近、それを馬鹿馬鹿しいと思える様になってしまった。
一つ大きく溜息をつき、アパーシャは歩き出した。



大通りに出てみると、人の密度は格段に上がる。
より一層多くの人々が歩いていて、とてもではないがスイスイと歩ける状況ではなかった。
大通りは出来るだけ避けて歩けとヴェノムは言っていたが、
こうして人込みに紛れていれば、逆に安全だろうと、そう判断していた。

賞金稼ぎのギルドがあるという西の区画以外は、大体調べ終わった。
残った西の区画に一縷の望みを掛ける気もないし、わざわざ危険に飛び込む必要も無いだろう。

ヴェノムとの待ち合わせの時間もそろそろ近くなってきている。
苦労の末ようやく辿り着いたジェノバだが、もう発つべき時が来たようだ…
或いは、疲れを癒すために少しの間滞在してもいいが――――――


「 ド ク ン 」


次の瞬間、思考がぶつりと切れた。
心臓が通常の脈動とは関係なく、突如大きく跳ね上がった。
呼吸が一瞬止まって、アパーシャは人込みの中で一人、思わず立ち止まってしまった。
異常を起こした左胸を抑え、俯いた。

「(…何?何、今の…?)」

自分でも何が起こったか判らなかった。
こんな事、一度も経験した事がなくて、頭の中が混乱し始めた。
普段の鼓動を取り戻したと思った心臓が、何故か彼女の意に反して、激しくなってきた。

しばらくして、次第に、何かとても嫌な感触が身体中に満ちていくのがすぐに判った。
背筋に鋭い悪寒がゾクゾクと走り、直後、今度は何かジリジリとした、
灼熱のような熱さが身体の内から湧き出してくる。
うなじがピリピリと疼いて、何処か息苦しさを覚えた。
アパーシャは以前にも、こんな感触に見舞われた覚えがあった。
あの時、廃都市で、姿の見えぬ何かの恐怖に晒されていた時の感触―――

…あの男が近くに居る?でも何処か違う感じがする…
何処か冷めた感のあったそれとは違ってて、
とても激しくて、殺気を隠そうともしない、…とても怖い感じ…
賞金稼ぎ?よく判らない。けれど、必ず私に災厄をもたらすであろう、『何か』が近くに居る…?

この大通りで偶然にもすれ違って、『それ』に自分の存在を気付かれた?
そして、今の心臓の発作は一体何だったのだろう?
仮にこっちの存在に気付かれていたとしても、
まさかこんな人込みの中で襲い掛かってくる筈もあるまいが、ないとも言い切れない。
相手が何者で、どんな事を考えているのか見当もつかぬ限り、何も判ることは無い。
今此処で出来ることは、目立たぬ様、人込みに紛れ、一刻も早く振り切る事のみ――――――


乱れる息を殺し、平静を装って、アパーシャは止まった足を前に進める。
それまでよりも幾分速い足取りで、人と人の間を縫う様に、次々と追い抜かしていく。

しかし、背後から吹き付けてくる様な、焼け付く激しい威圧感は徐々に増してくる。
それだけで身体が今にも炎を上げて燃え上がり、それだけで殺されそうだった。

「(…気付かれてる…後を追ってきている…!?)」

この数日間で戦いのノウハウをヴェノムから叩き込まれたが、
皮肉にもそれが、背後の追跡者の絶望的なまでの強さを彼女に知らしめる結果となっていた。
賞金稼ぎ達とはまるで比べ物にならぬ、
対峙しただけで脚がすくみ、戦意を奪われるかの様な、強大な殺意が襲い掛かってくる。
まともに戦って太刀打ち出来る相手ではない、それが目の前に突きつけられた事実。
そして、それが今こうやって自分へと向かって来ているという事実が、
アパーシャの内なる冷静を完全に打ち壊してしまっていた。

「(決して振り向いちゃ駄目…振り向いたら、死ぬ…)」

それだけが頭の中に残り、ただひたすら歩きつづけていった。
早くヴェノムと合流し、この事態を何とかしないと…何とかしないと…




ヴェノムは既にやるべき事を済ませ、所定の場所に着いていた。
どうやら、まだアパーシャは来ていない様だ。
また、もうしばらくは彼女を待たなければいけない様である。
腕を組み、それとなく街の風景を見上げると、日差しが眩しかった。

―――しかし、改めて思うが、彼女は一体何者なのだろうか。
類稀なる強大な法力を秘めている事意外は、凡人とさして変わりはしない。
だが、単にそれだけの存在として片付けてしまうのは、あまりにも軽率である。
本人の意思とは関係なく、何かもっと、特殊な立場の上に立たされている様な気がするものだと、
どこか確信めいた推測をしていた。
ともかく、彼女と行動を共にしてから、未だ彼を唸らせる様な強者は現れていない。
幸い、時間はそんなに残されていないが、若干まだ余裕がある。
当分の間は、もうしばらくアパーシャについていく事になりそうだ。
果たして彼女は何を見せてくれ、何をもたらしてくれるだろうか―――

「…む?」

街の中からアパーシャが歩いてくるのが確認出来た。
だが、彼女の表情は硬く、張り詰めているようにも見え、どこか足早で動きもぎこちなかった。
様子が普通でない事は、誰の目からも明らかであった。
―――どうやら、何か厄介事にでも巻き込まれたらしい。

「どうした、何があったのだ」

「早く、此処から逃げましょう…早く、此処から離れないと…」

小さな声で言ったその言葉は弱々しく、怯えている様にも聞こえた。
まるで以前の彼女に逆戻りしたかの様に思えた。

「アパーシャ、どうしたのだ」

制止も聞かず、彼女はただ逃げるかの様にヴェノムを置いて、先へと突き進んでいった。
訳も判らぬまま、ヴェノムが彼女の後を追おうとした瞬間だった。
ヴェノムは思わず足を止める。


「…っ」


これまでに感じた事もない程に、激しく、強大な殺意が猛然と背後から吹きつけられた。
本能的な戦慄を覚え、鳥肌がゾクゾクと立った。
久しく感じていなかった感覚だった。
果たしてこれが何者の闘気であるかは判らぬが、決して並の手練れのそれではない事は確かだった。

成程、アパーシャがあれ程に怯えるのも無理はない。
どうやら此処に来て、彼女はようやく飛んでもない獲物を呼び寄せてくれたようだ―――

ヴェノムはすぐに足を運び、先を行くアパーシャに追いついた。

(走るぞ)

ヴェノムが小さな声でアパーシャに告げると、彼女はゆっくりと頷いた。

そしてすぐに、合図もなく、二人は同時に駆け出した。
街から加速度的に距離を開けていく、しかし決して振り向こうともしなかった。
彼女には判っていた。
ヴェノムが走れと言ったのは逃げるためではなく、戦いやすい場所へ誘い出すためだと―――





10分程経った。
ジェノバから離れ、二人はゴツゴツとした岩場へと迷い込んだ。
あちらこちらに大きな岩石が点在し、大小様々の石が無数に転がり、足場は悪い。
生物の気配も全く感じる事は出来ず、何とも殺風景な場所であった。

ヴェノムとアパーシャはこの岩場の中心部分まで走ってきて、立ち止まった。
だが、先刻から二人へと向けられ続けているこの圧迫感は少しも衰える事はなかった。
やはり『何か』がずっと、後を追って来ているのは確かな様だ。

「…」

二人とも無言のまま、今来た道の方向へ振り返る。
ヴェノムは持っていたケースからキューのパーツを取り出すと、ケースを投げ捨てた。

「来るぞ」

キューを組み立てながら、ヴェノムが冷静に告げた。
彼は得物を組み立て終えると、ゆっくりと構え、来るべき存在へと備えた。
アパーシャはただ臆して、武器を取り出す事も出来なかった。


かくして、岩場の影から現れたのは、一人の男であった。
細身な身体ではあったが、筋骨隆々としていて、しかしそれに留まらぬ凄まじい何かを印象づけた。
野生的に乱れた長い茶髪を後ろで結わえ、
額につけられた真紅の大きなヘッドギアが一番の特徴として、アパーシャの脳裏に焼き付いた。
ノースリーブの紅いジャケット、ベージュのジーンズ、右手に逆手に握られた、四角い刀身の、独特な剣。
研がれたかの如き眼光は獣のそれ以上に鋭く、恐ろしく、アパーシャとヴェノムを捉えていた。

「………」

沈黙がずっと場を支配していた。
男はただ黙ったまま二人と向かいあって、二人を睨み付けたまま立っていた。
ずっとアパーシャを脅かし続ける強大なプレッシャーは、まさにこの男が発し続けるものであった。

―――何なの、この人誰なの?
何で初対面の私を、此処まで殺そうって思えるの?
廃都市で会ったあの男よりも、ずっとずっと、私を殺す気でいる。
賞金首とか賞金稼ぎとか、そんなのが問題にならないぐらいに、この人は私を殺そうとしている!

アパーシャはこの男が恐ろしかった。
向かい合っただけでも恐怖に飲まれ、気絶してしまいそうな程に怖かった。
戦意など全く湧かなかった。勝てるはずもなかった。

「アパーシャ、君は逃げろ」

ヴェノムが突然、彼女にそう言った。
恐怖に思考が止まっていた彼女は、思わずビクリとした。

「……えっ?」

「この男は私が引き受けると言っている。君はその間に出来る限り、遠くへ行け」

「…で、でも…貴方一人で勝てるの」

「恐怖に足が震えている君がいたとて、邪魔なだけだ。
 案ずるな、後でまた落ち合おう。判ったなら早く行くがいい」

アパーシャは沈黙した。何も言い返せなかった。
しばらく呆けていた後、覚悟を決めたのか、くるりと背を向けて走り去っていった。
その足音だけを聞き、ヴェノムは彼女の姿を確認はしなかった。


「君の事は知っている、ソル・バッドガイ」

「…んだ、テメェ」

ソルと呼ばれた男がはじめて口を開いた。
ドスの聞いた粗暴な話し方で、ヴェノムにガンを飛ばした。
名前を呼ばれても、全く微動だにしなかった。

「武闘大会に於いては最強最悪と謳われたジャスティスを葬り、
 先日のギア騒動でも、標的のギアを破る程の戦闘能力を誇る賞金稼ぎ。
 その道に生きる者で、君の事を知らぬ者はいない」

「テメェに用はねぇ。どけ」

「生憎だが、そうもいかん。
 君程の男が、ただ賞金目当てにあの様な娘を狙うとも思えんのでな。
 さて、あの娘の何を知っているのか聞かせてもらおうか」

「知らん、どけ」

ソルは最低限の言葉だけで返事をし、全く話に付き合おうともしない。
ヴェノムとしても、そうあっさりと聞き出せるなどと期待もしていなかったが、
どちらにせよ、ソルがアパーシャを狙っている以上、最初の契約通りに彼女を守らねばならない。

「どうしても先に行きたいか。なら、私を倒さぬ事には始まらんな。
 私を打ち負かす事が出来たのならば、あの娘はどうとでもするがいい」

ヴェノムはそう言って上着をかなぐり捨て、戦闘体制に移行した。
只でさえ眉間に皺を寄せていたソルが、さらに鬱陶しそうな表情を見せた。

「…うぜぇ…」

次の瞬間、ソルの周囲から突如、豪炎が立ち上った。
今までのプレッシャーに加えて猛烈な熱風が吹き付けられ、ヴェノムは少したじろいだ。

―――噂には幾度となく聞いていた。
それをも悠に凌駕する、あまりに凄まじい戦闘能力!!
だが、私とて負けるわけには行かない。恐らくは、この炎もまだ序の口に過ぎぬのだろう。
これに叶わぬものなら、異種である『あの者』を倒すなど絶対不可能!

「…さて、その業火がどこまで私に通用するのか楽しみな事だ」

戦う前から、精神面で負けてはならない。
…先日にヴェノム自身が、アパーシャに教えたばかりの事である。
正直なところ、勝てる望みは薄いと言わざるを得ないが、
これぐらいのレベルの者が相手でなければ、組織を離れて行動している意味はないのだ―――

「御託ばっかで五月蝿ぇな…消し炭にするぞ、テメェ」